『さけるグミ』、あれ別に裂く必要なくね?

なんとなく、お菓子が食べたいと思い。コンビニに出掛けた。どちらかというと、チョコのような甘さではなく、柑橘系のような爽やかな甘さが欲しかったので、グミの地へ。ヤツは、そこにいた。




さけるグミ





見かけることはあっても、実際に食したことがなかったので、グレープ味を買って帰ることにした。
帰宅し、封を開けると、小分け袋が何個か出てきる。そこに入っていたのは、縦4cm、横2.5cm、厚さ2ミリほどの縦長で薄いグミ。



薄紫の図体には、垂直の切れ込みが幾つも入れられていおり、想像力がはたらく者ならば、この切れ込みに沿って裂けばいいのだろうということは容易に理解できる。



しかし、一度立ち止まって考えてみてほしい。縦4cm、横2.5cmのグミである。ほとんど履歴書に貼る証明写真ぐらいのサイズである。



いざ袋を開け、中身を裂こうとしていた私は、このときふと我に返った。




そのまま食べられるんじゃね…?



わざわざ裂く必要なくね…?



『さけるグミ』ではなく、『グミ』じゃだめなん…?





法と倫理の狭間を彷徨う判事のように、私の心は揺れ動いていた。グミを裂く前に、私の精神が引き裂かれようとしていた。



ここであえて"裂かない"という選択肢を取るのは、『午後の紅茶』を午前に飲むのと同じ類いの行いなのだろうか。斜に構えてると見なされるのだろうか。"通ぶってる"と多方面からぶっ叩かれることも考えられる。



しかし、裂いたら裂いたでまた問題点が存在する。「裂く」という行為の必要性、その是非である。どちらかというと、「裂く」ことそのものの必要性はここで議論されるべきではないのかもしれない。



というのも、商品名が『さけるグミ』なのだから、必要があろうとなかろうと、裂くことが要求されているのである。「じゃあ裂けばいいじゃん」で話は終わってしまう。



ここで言及すべきなのは、その「裂く」という行為が形骸化していないかという点。
商品名が『さけるグミ』だから裂く。「じゃあ裂けばいいじゃん」で裂く。
本当にそれでいいのだろうか?小学校の頃やっていた六年生を送る会みたいになってないだろうか。



当時五年生だった私は、他の級友と共に面識のない上級生のために鬼のように放課後合唱練習させられ、送られる側の六年生となっても「いや誰やねん」と鬼のように思っていた。私の小学校は、縦のつながりがほぼなかったので、割と鬼のように形骸化してた。



中学校とかならまだ分かる。部活などがあったため、先輩後輩の関係が築かれていた。ちなみに私は卓球部だったのだが、主な活動場所は体育館ではなく、教室で、顧問が来ることはほとんどなかった。




そこで何をしていたかというと、卓球ではない。大富豪である。もうカードゲーム部いけよという話であるが、監視の目のない場所に中学生を放置した顧問にも責任がないとは言い切れない。





なんの話だっただろうか。そう、さけるグミ


結局一回だけ裂いた。おいしかったです。