ぺヤングの獄激辛を、食べました。

 ヒトの前足が重力の制約から解放され、二足歩行へと進化したとき、人類は二つの〝光〟を手にした。一つは知性。脳の大きさが歩行に与える影響の軽減は、すなわちその容量の増大を許容することを意味していた。それまで本能という鎖に縛られ、他の動物となんら変わりなく情動に隷属していた人類は、そのとき初めて自らが一糸も纏っていないことを知り、これを恥じた。もう一つは「火」である。暗所を照らす光源として、はたまた低温から身を守るための熱源として、そして食料を調理するための道具として、「火」はありとあらゆる場所、場面で用いられてきた。

 

 森を切り拓き、荒れ地を整え、農地や街や都市を形成していく過程で、この二つの〝光〟は常に人々に寄り添い、文明の歩みを共にしてきた。しかし一方で、これらの〝光〟が災害や戦争という形で人類に牙を剥いてきた例は枚挙に暇がない。

 ロンドン、ローマ、シカゴ、江戸、コンスタンティノープル古今東西を問わず、驚異的な速度を伴って拡大する破壊的な炎は、造作もなく文明を蹂躙してきたし、そこに人間の意思が介在しうる余地など殆ど無に等しかった。焦土と化した地に残るのは、せいぜい火種が燻る瓦礫の山と、想い出や財産がことごとく灰燼へ帰してうなだれる人々の姿である。

 人類の叡智はこれまでにないほどに物質的な豊かさを実現し、ついには原子の焔を操るに至ったが、東西の大国が大量破壊兵器を向け合っていたという事実は、世界を恐怖に陥れ、人々は滅びを覚悟した。

 

 今、私の目の前にはぺヤングの『獄激辛やきそば』がある。まだ半分も食していない。上の文章を書きながら少しずつ食べていたが、まあ辛い。「からい」ではなく、「つらい」。「からい」というレベルを超えている。

 

 

 痛い。

 

 

 刺激がいつまで経っても舌の上で踊っている。水では鎮火しきれない。

 

 

 正直甘く見ていた。せいぜい火炎瓶レベルかなぁと思ってたら、重爆撃機の大編隊による焼夷弾の絨毯爆撃だった。焔の津波に襲われた都市は、攻撃が止んでもなお炎に覆われ、無辜の民の断末魔で覆い尽くされている。決死の消火活動も虚しく、救いを求める叫びと悲鳴がそこかしこで木霊している。

 

 

 罰ゲーム以外ではあまり食べないほうがいいと思う。。。

『さけるグミ』、あれ別に裂く必要なくね?

なんとなく、お菓子が食べたいと思い。コンビニに出掛けた。どちらかというと、チョコのような甘さではなく、柑橘系のような爽やかな甘さが欲しかったので、グミの地へ。ヤツは、そこにいた。




さけるグミ





見かけることはあっても、実際に食したことがなかったので、グレープ味を買って帰ることにした。
帰宅し、封を開けると、小分け袋が何個か出てきる。そこに入っていたのは、縦4cm、横2.5cm、厚さ2ミリほどの縦長で薄いグミ。



薄紫の図体には、垂直の切れ込みが幾つも入れられていおり、想像力がはたらく者ならば、この切れ込みに沿って裂けばいいのだろうということは容易に理解できる。



しかし、一度立ち止まって考えてみてほしい。縦4cm、横2.5cmのグミである。ほとんど履歴書に貼る証明写真ぐらいのサイズである。



いざ袋を開け、中身を裂こうとしていた私は、このときふと我に返った。




そのまま食べられるんじゃね…?



わざわざ裂く必要なくね…?



『さけるグミ』ではなく、『グミ』じゃだめなん…?





法と倫理の狭間を彷徨う判事のように、私の心は揺れ動いていた。グミを裂く前に、私の精神が引き裂かれようとしていた。



ここであえて"裂かない"という選択肢を取るのは、『午後の紅茶』を午前に飲むのと同じ類いの行いなのだろうか。斜に構えてると見なされるのだろうか。"通ぶってる"と多方面からぶっ叩かれることも考えられる。



しかし、裂いたら裂いたでまた問題点が存在する。「裂く」という行為の必要性、その是非である。どちらかというと、「裂く」ことそのものの必要性はここで議論されるべきではないのかもしれない。



というのも、商品名が『さけるグミ』なのだから、必要があろうとなかろうと、裂くことが要求されているのである。「じゃあ裂けばいいじゃん」で話は終わってしまう。



ここで言及すべきなのは、その「裂く」という行為が形骸化していないかという点。
商品名が『さけるグミ』だから裂く。「じゃあ裂けばいいじゃん」で裂く。
本当にそれでいいのだろうか?小学校の頃やっていた六年生を送る会みたいになってないだろうか。



当時五年生だった私は、他の級友と共に面識のない上級生のために鬼のように放課後合唱練習させられ、送られる側の六年生となっても「いや誰やねん」と鬼のように思っていた。私の小学校は、縦のつながりがほぼなかったので、割と鬼のように形骸化してた。



中学校とかならまだ分かる。部活などがあったため、先輩後輩の関係が築かれていた。ちなみに私は卓球部だったのだが、主な活動場所は体育館ではなく、教室で、顧問が来ることはほとんどなかった。




そこで何をしていたかというと、卓球ではない。大富豪である。もうカードゲーム部いけよという話であるが、監視の目のない場所に中学生を放置した顧問にも責任がないとは言い切れない。





なんの話だっただろうか。そう、さけるグミ


結局一回だけ裂いた。おいしかったです。

「明日暇?」とかいう質問を投げる奴は、とりあえず人生を悔い改めて欲しい。

人類史上、最も難解とされる問いはなんだろうか。




神は存在するのか。時間はなぜ一方向にしか進まないのか。宇宙の外側はどうなっているのか。生きる意味とは何か。古来より多くの賢人の頭悩ませてきたこれらの問いはしかし、今日に至るまで画一的な答えは示されていない。




いずれも我々にとって根源的な問いではあるが、極論これらは解決されなくとも、我々は今まで通りの生活を変わらず営むことが可能だ。しかし、この問いは違う。これは我々の住む世界への侵略者であり、破壊者でもあり、良心に対する冒涜者でもある。







「明日、暇?」







我々の健康で文化的な最低限度の生活を脅かすこの文言。




我々は一体これにどう答えるべきなのだろうか。





まず前提として、人を誘う際、OKを貰いたくて誘うはずだ。それは分かる。
次にその誘い方。要件を伝え、その上で日時を提示する。順序の逆はあれ、概ねこんな感じではなかろうか。


もし要件が気に入らなければそれでよし、日時に都合が付かなければ調整すればよし。多くの者は、そうやって「約束」を構築していくのではないか。お互いの同意の下で成り立つのが約束だ。




それが、






「明日暇?」





お分かりいただけただろうか。




約束はお互いの同意のもと成立する。その前提を一撃で破壊してくる。
同意はお互いが話し合って形成される。そんな期待をワンパンで蹂躙される。




「明日暇?」が孕む暴力性はそこにある。我々が培ってきた価値観を、何の躊躇もなくズタズタにしてくる。何の用件なのか知りたい、そんな我々の意思を有無を言わさず圧殺してくる。




先に逃げ場を塞ぐ。この悪辣外道なやり方は、対話を望む人間のやり方ではない。先に、用件が、知りたい。そんな我々の切実で、そして健気な願いは、全てを捩じ伏せる圧倒的な暴力によって踏み潰される。



暇なら絶対来てくれると勝手に決めつける傲慢さ。相手の意見を伺うことを放棄する怠惰さ。自分の誘いを何がなんでも通そうとする強欲さ。
この暴虐のワードは、あろうことか7つの大罪のうちの3要素も兼ね備えている。
スターターデッキかな?
カードゲームを新しく始める人へ向けた、スターターパックか何かかな?





顔も見えないまま和歌でやり取りをしていた平安貴族を思い浮かべてほしい。愛しい者を思い浮かべて歌を詠む男。それを受け取った女が歌を詠み返す。そんな風景だ。




ここでもし、





「明日、暇?」





などとどちらかが送ってみたらどうなるだろうか。




破局で済むだろうか。下手したら内乱が起こるのではないだろうか。もしかしたら日本史の教科書は、現在のものより1ページ厚くなっているのかもしれない。





これが首脳会談であったらどうだろうか。2つの大国を引っ張る、2人の指導者。例えば、両者が会談の場を設けようとしたら、「会談をしたい」と先に用件を述べてから、日程を調整するのではないだろうか。当然、両者とも多忙なスケジュールを持つ身である。しかし、なるほど会談ならば仕方ない、とスケジュールの調整を始めるはずだ。





だが、ここでもし






「明日、暇?」





などと片方が宣ったらどうなるだろうか。






核戦争で済むだろうか。この暴力的なメッセージを受け取った側は、間違いなく宣戦布告と解釈する。


サラエボで放たれた2発の銃弾はヨーロッパ全土を巻き込む大戦にまで発展したのだ。であるならば、「明日暇?」の暴力性を過小評価するのは余りにも軽率ではないだろうか。この暴力的なメッセージが生み出す更なる暴力から目を背けてはならない。我々は今、岐路に立たされている。




次の世代を担う者たちには、平和とは何かをよく考えてほしい。その先に見えてくるものが、きっとあるはずだ。

Instagramを、始めようとした。

私は、Instagramをやったことがない。



始めようとしたことはあった。せっかく流行っているのだし、挑戦してみるのもありではないか、と。
何より、未知なるものに惹かれるのは知的好奇心を持つ人間の性(さが)である。



しかし、叶わなかったのだ。インストールしようとした瞬間、ある根元的な感情が私を襲った。“恐怖”だ。






まずはアプリのアイコンから見ていこう。
我々と馴染みの深いTwitterは、こうである。


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青い背景に、純白の鳥。小鳥の囀りをイメージしているであろう。シンプルかつ味のあるデザイン。


続いてLINE

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鮮緑に浮かび上がった白い吹き出しは、それだけで我々にこのアプリがどのような用途で使われるかを理解させる。これならばアプリを探す際にも困ることはない。


そしてInstagram

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お分かりいただけただろうか。





だってもうこれ、違うじゃん。





なに?この薬物常習者が見る幻覚のようなカラーリング。




これを目にするや否や、僕の足は竦んでしまった。体の中の、本能により近い部分、遺伝子の奥深くで警鐘が鳴り続けている。



このアプリは、ヤバい。




何がヤバいって、とりあえずヤバい。





世のパリピ卍と呼ばれる種族は、一体何故これを平気で扱えるのだろうか。奴ら実は新人類か何かなのではないか。突然変異した遺伝子とそれにより獲得した形質で、世界征服を企てているのではないか。このInstagramというアプリは、その足掛かりとしてパリピ卍が送り込んできた尖兵なのではないか。




ここまで来たところで、私はようやくパリピ卍の裏で暗躍する巨大な組織の存在と、それによって世界に迫る危機に気が付いた。










ここで今一度、Instagramのロゴを見ていただきたい。

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何かに気付かないだろうか。そう───







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フリーメイソンである。





ソーシャルネットワーキングサービスを介した全人類の情報管理。そしてそれを利用した世界情勢のコントロール






ね、聞いたでしょ?

いやぁもうこれヤバイでしょ。

やりすぎのカメラはもうここまで来ちゃってるんだよね。

我々はもうここまで来ちゃったってわけ。

人類の選別は既に始まっちゃってるんだよね。

パンドラの箱は既に開かれちゃってるってこと。

あとゾルタクスゼイアン。





信じるか、信じないかは、あなた次第。

労働は、しない方がいいよ。

「こいつは何を言ってるんだ?」



リアルでそう思った経験はないだろうか。Twitterなどによくいる斬新な頭をしている者の投稿に対して、ではなく、現実世界の人間に対してである。




僕はある。あった。丁度その時、目の前の人間が発する言葉をなんとか理解しようと努めていた。正確には、言っている内容そのものは咀嚼できていた。しかし、口を開いているその男が、一体どういう意図でそれを口にしたのかをさっぱり理解出来ていなかったのだ。




その男は、私の当時のアルバイト先で店長をやっていた。ドラ◯もんを何割か厳つくしたような体躯だった。
勿論、便利なひみつ道具なんて与えてはくれない。ヒステリックな怒鳴り声と、理不尽な叱責を時々浴びせてくる程度だ。





ある日、僕は先輩に教わった通りにテーブルをセットしていたのだが、それを見ていた店長は、とりあえず僕を“裏”(俗に言う「キッチン」だが、僕がここに呼ばれるときは大体怒られるときだったので、当時は“裏”と呼称していた)に呼び出した。

「お前、そのやり方はなんだ」

「え?教わった通りですけど」

僅かな間。“裏”に呼ばれた時点で、これ絶対怒られるやつやろ、と予想はついていた。



店長がいつも居る位置はホールのほぼ全体を見渡せる場所だったため、何かやらかしたら即座にバレるし、こちらとしても常に見られているためストレスが半端ない。
例えるなら、マジックミラーのないマジックミラー号のような感じだった。



何言われるんだろなー、と期待と不安で胸を膨らませるピカピカの小学生1年生のような面持ちで続く言葉を待っていると、






「変な教わり方しやがって!!」








!?!?!???!!!?!?!






変な教わり方しやがって。





え、これ僕が怒られるの?僕が怒られることなの?
僕が背負うべき罪なの?
それが第一の感想だった。




ドラえもんの叱責は続く。




「お前はここで何も学んでねぇじゃねぇか!」




思考が一瞬交錯した。なんということでしょう。なんでやねん。
不条理としか言いようがない。何を学べというのか。
テーブルのセット方法や、接客手順の他に、何を学べというのか。



そのとき初めて、僕はこの男が哲学的な問いを発している可能性に気付いた。







即ち───、
















───『学び』とは何か








言われた通りにやっているだけではいけない。この男はそう伝えたいのだろうか。




これまでの自らを顧みてみると、なるほど確かに言われた通りにしかやっていない。受動的な態度が非常に目立っていた。




だが、それだけではダメだったのだ。
僕は自分を恥じた。与えられるものを享受するだけでは、弱肉強食の荒野を生き抜く動物にも満たない。飼い慣らされて思考を奪われた家畜と同じ、いや家畜そのものだ。




人間が人間たる所以は、『学び』にこそあるのだと。絶えず思考を巡らせ、知識に対して能動的で貪欲であるからこそ、人類はその文明を発展させてきた。



そんな簡単なことにすら気付けなかった自分が、ただただ恥ずかしかった。
上から降ってくる「餌」を貪り続けることに満足していた自分が、ただ浅ましくて仕方なかった。




しかし、ここで一つの疑問が生まれた。



何故、この聡明で啓蒙的な男が飲食店の店長をやっているのだろうか、と。この人は、どう考えてもここに留まる器ではないと。



そこまで考えた僕は、ある一つの結論に辿り着いた。






もしかすると…













───この男は『神』なのではないか








全身に衝撃が走った。これだ。これしか有り得ない。この御方が神だとするならば、これまでの不条理も全て辻褄が合う。



神が平民に化けるなど神話をはじめとする創作においては枚挙に暇がない。
神はいつだって人々に試練を与えるものであり、あの発言とて不条理などではない。試練だったのだ。





我々は、前に進み続けなければならないのだ。






さぁ、労働を始めよう───。