労働は、しない方がいいよ。

「こいつは何を言ってるんだ?」



リアルでそう思った経験はないだろうか。Twitterなどによくいる斬新な頭をしている者の投稿に対して、ではなく、現実世界の人間に対してである。




僕はある。あった。丁度その時、目の前の人間が発する言葉をなんとか理解しようと努めていた。正確には、言っている内容そのものは咀嚼できていた。しかし、口を開いているその男が、一体どういう意図でそれを口にしたのかをさっぱり理解出来ていなかったのだ。




その男は、私の当時のアルバイト先で店長をやっていた。ドラ◯もんを何割か厳つくしたような体躯だった。
勿論、便利なひみつ道具なんて与えてはくれない。ヒステリックな怒鳴り声と、理不尽な叱責を時々浴びせてくる程度だ。





ある日、僕は先輩に教わった通りにテーブルをセットしていたのだが、それを見ていた店長は、とりあえず僕を“裏”(俗に言う「キッチン」だが、僕がここに呼ばれるときは大体怒られるときだったので、当時は“裏”と呼称していた)に呼び出した。

「お前、そのやり方はなんだ」

「え?教わった通りですけど」

僅かな間。“裏”に呼ばれた時点で、これ絶対怒られるやつやろ、と予想はついていた。



店長がいつも居る位置はホールのほぼ全体を見渡せる場所だったため、何かやらかしたら即座にバレるし、こちらとしても常に見られているためストレスが半端ない。
例えるなら、マジックミラーのないマジックミラー号のような感じだった。



何言われるんだろなー、と期待と不安で胸を膨らませるピカピカの小学生1年生のような面持ちで続く言葉を待っていると、






「変な教わり方しやがって!!」








!?!?!???!!!?!?!






変な教わり方しやがって。





え、これ僕が怒られるの?僕が怒られることなの?
僕が背負うべき罪なの?
それが第一の感想だった。




ドラえもんの叱責は続く。




「お前はここで何も学んでねぇじゃねぇか!」




思考が一瞬交錯した。なんということでしょう。なんでやねん。
不条理としか言いようがない。何を学べというのか。
テーブルのセット方法や、接客手順の他に、何を学べというのか。



そのとき初めて、僕はこの男が哲学的な問いを発している可能性に気付いた。







即ち───、
















───『学び』とは何か








言われた通りにやっているだけではいけない。この男はそう伝えたいのだろうか。




これまでの自らを顧みてみると、なるほど確かに言われた通りにしかやっていない。受動的な態度が非常に目立っていた。




だが、それだけではダメだったのだ。
僕は自分を恥じた。与えられるものを享受するだけでは、弱肉強食の荒野を生き抜く動物にも満たない。飼い慣らされて思考を奪われた家畜と同じ、いや家畜そのものだ。




人間が人間たる所以は、『学び』にこそあるのだと。絶えず思考を巡らせ、知識に対して能動的で貪欲であるからこそ、人類はその文明を発展させてきた。



そんな簡単なことにすら気付けなかった自分が、ただただ恥ずかしかった。
上から降ってくる「餌」を貪り続けることに満足していた自分が、ただ浅ましくて仕方なかった。




しかし、ここで一つの疑問が生まれた。



何故、この聡明で啓蒙的な男が飲食店の店長をやっているのだろうか、と。この人は、どう考えてもここに留まる器ではないと。



そこまで考えた僕は、ある一つの結論に辿り着いた。






もしかすると…













───この男は『神』なのではないか








全身に衝撃が走った。これだ。これしか有り得ない。この御方が神だとするならば、これまでの不条理も全て辻褄が合う。



神が平民に化けるなど神話をはじめとする創作においては枚挙に暇がない。
神はいつだって人々に試練を与えるものであり、あの発言とて不条理などではない。試練だったのだ。





我々は、前に進み続けなければならないのだ。






さぁ、労働を始めよう───。